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『ヒューマン・ボイス』

『ヒューマン・ボイス』(原題:The Human Voice)
監督:ペドロ・アルモドバル
出演:ティルダ・スウィントン
 
塚口サンサン劇場にて、前述の『マスター 先生が来る!』と後述作品の間に。
スペインの巨匠ペドロ・アルモドバル監督による初の全編英語作品。
コロナ下の2020年にさまざまな制約があるなかで撮られたそうです。
 
ジャン・コクトーの戯曲『人間の声』を「自由に翻案した」とのテロップ。
30分の短編で、冒頭に買い物のシーンがあるものの、あとはティルダ・スウィントン一人芝居
 
飼い犬を連れて金物店を訪れる女性。彼女は1本の斧を買います。
まっすぐ帰宅した女性はひたすら誰かの帰りを待っている様子。
それが別れた恋人であることがわかる。
 
今までは本を読んだり映画を観たりしている間に必ず帰ってきた恋人。
なのに数日前、恋人は出ていったまま。犬の主人は彼なのに。
いらつく彼女はベッドの上に置いた彼のスーツに買ってきたばかりの斧を振り下ろす。
 
ようやく彼からの電話があり、イヤホンをつけて話しはじめる彼女。
最初のうちは彼を待っていたそぶりなど見せず、毎日楽しく暮らしていたように話すけれど、
次第に感情が高ぶり、どれほど彼のことを待っていたか、
こんなふうに別れては気持ちの整理などつけられないと思いの丈をぶつけます。
 
電話の相手の声はいっさい聞こえません。
私たちが見るのはティルダ・スウィントンの狼狽した姿と必死な声だけ。
 
最後は落ち着いた声で電話の向こうの相手にそこからこっち見ていてねと告げ、
部屋に火をつけると、燃えさかる炎を見つめながら立ち去ります。
 
批評家の評価は非常に高い。でも私のような凡人が観ると「はぁ?」(笑)。
ただ、ペドロ・アルモドバル監督の色彩の使い方には目を奪われます。
原色がほとんどで、強烈なのにケバくない。美しい。
そんな中にたたずむ悲壮感あふれる哀れな女性の声が耳に残ります。
 
「はぁ?」と思っていたのに、なぜか部屋の様子と彼女の姿が頭から離れません。
今になって彼女の、彼への想いの断ち切り方に愕然とする。

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2023年1月に読んだ本まとめ

2023年1月の読書メーター
読んだ本の数:10冊
読んだページ数:3541ページ
ナイス数:824ナイス
■クジラアタマの王様 (新潮文庫)
読み初めは伊坂幸太郎と決めて、いそいそ頁を開く。前半はニヤニヤしながらグイグイ先へと進んでいたのに、格付けチェックやらドリーム東西ネタ合戦やらをつけたらそちらに神経が行って集中できず。但し、最後はやっぱりいつものとおり、あの人ともこの人とも繋がってジワ〜ンと沁みる。伊坂さんまでこんなにコロナに寄せるのかと思ったけれど、それより前の作品だったのですね。今日の私たちのために、夢の向こうで踏ん張ってくれている人がいるのかもしれない。巻き込まれるかもしれなくても行く。何かあってから考えればいい。その考え方が好き。
読了日:01月03日 著者:伊坂 幸太郎
■騒がしい楽園 (朝日文庫)
年末に同著者の旧作を読んだばかりですが、新年も中山七里を読まずば明けた気がしない。車通勤の私は、通勤ラッシュ時の女性専用車両がそんなことになっているとは知らず驚愕。敵は多かろう舞子先生、誰にも媚びない姿勢が私は好き。しかし次は霊長類と聞いて、まさか子どもは殺さないだろうと思っていたのに、七里センセ、鬼(泣)。その描写はなかったのが救い。騒音と待機児童という社会問題を扱っているのは著者らしくて面白いものの、期待値が高いせいか犯人もその動機もショボく感じてしまいます。連続刊行作品中に大当たりがありますように。
読了日:01月05日 著者:中山 七里
■このゴミは収集できません (角川文庫)
私が結婚するとき、母から言われた唯一のことは、「ゴミの出し方には『人』が出るから気をつけや」でした。昨年末、ネットニュースで、缶が見事に潰されている画像の提供者がお笑い芸人でゴミ清掃人であり、本も書いていることを知りました。母の話を思い出しながら読んだら、めちゃめちゃ面白い。ゴミを見ればその暮らしぶりも人となりもわかるのは本当なんですね。悲しいかな貧乏人は貧乏人の姿がゴミの中に表れる。文才のない私が言うのもなんですが、この人、文才ありますよねぇ。三島由紀夫が割腹するような覚悟で私も断酒するか。しないけど。
読了日:01月09日 著者:滝沢 秀一
■廃墟の白墨 (光文社文庫)
まったくもって暗い。遠田潤子が紡ぐ物語はいつも凄絶で暗い。なのに吸い寄せられるように読み始めてしまうのです。病床の父親宛てに届いた手紙を無視できず、指定された場所に出向く息子。そこにはかつて父親と同じビルに住んでいた男たちが集まっていて、その全員が最上階に住む艶めかしい大家と寝ていたという。大家の惚れ込む男をクズだと言うけれど、ほかの男たちだってクズ。大家の幼かった娘の心配をしたところで罪滅ぼしにはならない。誰も好きになれないのに読むのをやめられません。償おうにも償う相手がこの世にもういないとは。苦しい。
読了日:01月12日 著者:遠田潤子
■一匹羊 (光文社文庫)
山本幸久の何を最初に読んだのだったか。『ある日、アヒルバス』だったか『男は敵、女はもっと敵』のどちらかだったように思います。どハマりして大人買いしたけれど、読み切れず積んだままになっていたもの多数。久しぶりに読んでみたら、ハマったときほどの面白さは感じない。だけどやっぱり落ち着ける。突飛なことは何もない、私を含めてその辺に居そうな人たちの、日々の些細な不満。そしてそれをほんの少しだけ向こうに吹き飛ばしてくれるささやかな幸せ。読み終わった後に頭の中に流れるのは、第一章のせいで本文とはあまり合わない石野真子。
読了日:01月13日 著者:山本 幸久
■ミスコン女王が殺された (創元推理文庫)
このシリーズに関しては、必ず1作目から順に読むことをお勧めします。ってまだ私もやっと2作目を読んだところですけれど。楽しい。すごく楽しい。CIAの凄腕エージェントでありながら、訳あって田舎町で身を潜めなければならなくなったフォーチュン。まったく興味のないメイクやファッションを覚えるはめになっても、いざというときにはエージェントの血を隠せません。町のどんな男も伸してしまえそうな彼女にとって唯一手強い保安官カーターとの行く末も楽しみ。全然違うのに、なぜか“よろず建物因縁帳”の春菜と仙龍を思い出してすみません。
読了日:01月19日 著者:ジャナ・デリオン
■噓つきは殺人鬼の始まり SNS採用調査員の事件ファイル (宝島社文庫 『このミス』大賞シリーズ)
面白いけど嫌な話を書く、そんなイメージのある作家です。本作も何がどうなるのか先が読めず、真相がわかったときには中山七里のドンデン返し並に驚きました。就活生のSNSの裏アカを特定して企業に報告する探偵。彼のせいで内定を取り消された大学生。このふたりがコンビを組むようになるのがたまたまのことではなかったなんて。血も涙もないと思われた借金取りのオッサンのまさかの活躍に胸を熱くしていたのに、こんなラストはアンマリだ~(泣)。ところで「行けたら行く」はやはり断りの文句なんですかね。言葉通りの意味で使う人、好きかも。
読了日:01月24日 著者:佐藤 青南
■神様ゲーム (講談社文庫)
この表紙ならもう少し身構えて読み始めたと思うのですが、今は二重表紙になっていて、子どもがクレヨンで描いた絵。小学生たちが探偵まがいのことをして犯人を引っ捕らえる話を想像していたらとんでもない。猫は切り刻まれるわ、複数の子どもが死ぬわ、内ひとりは『サスペリア』かと思うような串刺し状態、トラウマ級の殺され方。誰の悪もすべてお見通しの「神様」=鈴木くんが天誅を下す。鈴木くんっていったい何者なんでしょか。片想い相手の女の子が主人公少年の父親とデキているかもしれないなんておぞましすぎる。小学生だっちゅうの。ビビる。
読了日:01月26日 著者:麻耶 雄嵩
■旅のオチが見つからない おひとりさまのズタボロ世界一周! (MF comic essay)
「メキシコは怖いところだから気をつけて」と言われてメキシコに向かったスペイン語堪能な知人が、現地の空港で「大阪は怖いところだから用心しろ」というメキシコ人同士の会話を聞いたと言っていたのを思い出しながら読みました。私にはこんな旅は絶対にできないし、したくもないけれど、めちゃめちゃ楽しい。ふきだしてしまった箇所がいくつもあります。紹介されているお料理も美味しそうで惹かれる。博物館に勤務している私は、特にモンゴルの衣装に「あるよあるよ、この衣装」とウキウキしました。牛糞で焼いたマシュマロは食べたくない(笑)。
読了日:01月30日 著者:低橋
■誠実な嘘 (二見文庫 ザ・ミステリ・コレクション)
京極夏彦も顔負けの750頁余、ぴったりのブックカバーは無いし、頁を開いて持っている手も辛い厚さ。いや、京極さんはもっと分厚いか。序盤はアガサの目的がわからず、単にメグに憧れているのかと思う。そのうち少し印象が変わり、今村夏子の『むらさきのスカートの女』に登場する黄色いカーディガンの女のような存在を想像。そういうことかとわかる頃には不気味さが募り、時折聞こえる闇の声に多重人格者を疑ったりも。誰のための秘密か。誰のための嘘か。タイトルが意味するところはイマイチ私にはピンと来ません。読み応えはあるけれど、不穏。
読了日:01月31日 著者:マイケル・ロボサム

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『マスター 先生が来る!』

『マスター 先生が来る!』(原題:Master)
監督:ローケーシュ・カナガラージ
出演:ヴィジャイ,ヴィジャイ・セードゥパティ,マラヴィカー・モーハナン,アルジュン・ダース他
 
毎年恒例全館停電の日、ちょうどこの冬最大の寒波が到来しました。
朝は一面の雪化粧、家から出られない可能性もありましたが、よく晴れて道路の雪は解ける。
午後、この分なら映画に行けそうだと塚口サンサン劇場へ向かいました。
 
なんばパークスシネマで上映されていたときに観そびれたインド作品。
タミル語映画界のスーパースター、ヴィジャイ主演なのですけれど、
ややこしいのは敵役がヴィジャイ・セードゥパティだということ。
韓国人俳優に同じ名前の人が多いように、インド人俳優もそうなんですかね。
同じ映画のキャストにヴィジャイが何人もおったらややこしいがな。
監督は『囚人ディリ』(2019)のローケーシュ・カナガラージ。
 
名門大学に勤めるJD(ヴィジャイ)は学生から絶大な人気を集める名物教授。
18時以降は酒を飲んでぐでんぐでんに酔っぱらっているが、
昼間は学生のピンチとあらばすぐさま駆けつけ、悪い奴を叩きのめす。
痴漢行為を働きながら権力者である父親の差配で海外へ逃亡を図った学生を引っ捕らえたりも。
 
あるとき、学生の間で会長を決める選挙をおこなう案が出るが、
面倒なことを嫌う学長や一部の教授たちは選挙に反対。
学生の意向を汲んで選挙に賛成するJDは、もしも揉め事が起きれば辞職すると宣言。
 
選挙の結果、僅差で改革派の女子学生が勝利。
ライバルの男子学生側は喧嘩する気満々だったが、女子学生は男子学生に共に会長を務めようと提案。
仲良くお互い手を取り合って行くことになったのに、
男子学生の父親が政治家で、息子の敗北を恥として激怒し、部下に騒動を起こすように指示。
となればJDを辞めさせられると学長は喜ぶ。
 
大学を去ることになったJDは、教師のなり手がないという荒廃しきった少年院に赴くことに。
そこは、冷酷非道なギャングの元締めバワーニ(ヴィジャイ・セードゥパティ)が支配しており、
少年たちにじゅうぶんな食料を与える代わりに酒やドラッグも与え、自分の言うことを聞かせていた。
自らも少年院の出のバワーニは今やじゅうぶんな資金を手にして財界への進出を目論んでいて……。
 
『RRR』と同じく本作も179分の長尺。
前夜というのか当日、92歳にしてスマホデビューする母用のスマホの設定で就寝したのが午前3時。
ゆっくり寝るはずが、大雪で私の通勤を心配した母からの電話で朝7時に起こされてネムネム。
3時間は寝てまうやろと思ったのに、まったく眠くならず。
 
ヴィジャイ演じるJDの強いことと言ったら。無敵です。
酔っぱらって爆睡しているところを学生たちに担ぎ出され、酔拳のごとく戦うのかと思いきや、
泥酔中は全然駄目です。覚醒してからしか戦いませんけれど(笑)。
そしてその強さで大人を叩きのめしても、子どもには絶対手を出さない。
 
ボリウッドらしく踊りのシーンもありますが、むさ苦しい男ばっかり。(^^;
それにヴィジャイの踊りは『RRR』を観た今となってはキレ味イマイチで、
やっぱりラーム・チャランにはどう見ても敵わないのですよねぇ。
顔もどちらかといえばカッコイイというよりはカワイイ顔立ちで、ラーム・チャランが圧倒的に上だし。
 
まだ幼い少年の首が吊られるなど残酷なシーンもあって引きましたが、
それを除けばとても面白くて楽しめる作品です。
映画になぞらえた作り話を得意とするJDが、インド作品のみならず『タイタニック』(1997)の話をしたときは、
私を含めて客席から笑いが起きました。ボリウッド、やっぱり良し。
 
罪は自分で償え。

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『エンドロールのつづき』

『エンドロールのつづき』(原題:Last Film Show)
監督:パン・ナリン
出演:バヴィン・ラバリ,リチャー・ミーナー,バヴェーシュ・シュリマリ,ディペン・ラヴァル,
   キシャン・パルマー,パレッシュ・メタ,アルペシュ・タンク,ナレシュクマル・メタ他
 
なんばパークスシネマにて、前述の『ヒトラーのための虐殺会議』の次に。
 
インド/フランス作品。
パン・ナリン監督が自らの少年時代の実体験を基に描いた自伝的作品なのだそうです。
ナリン監督はインドの実力派と言われているそうだけど、私は知らないんだなぁ。
ネットで調べてもヒットするのは2本だけ。しかもタイトルが怪しすぎる。
『性の曼荼羅』(2001)と『花の谷 時空のエロス』(2005)って。劇場未公開だし。
 
しかし本作はめちゃめちゃよかった。
インド版『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)といったところかと思いますが、
私はこっちのほうが断然好き。なんとも愛らしく爽やかで切ない。
行ったこともない異国の話なのに、郷愁を感じます。
 
2010年、インド・グジャラート州の田舎町チャララ。
9歳の少年サマイは両親と妹の4人暮らし。
もとはカースト制度の頂点バラモンだった父親は、訳あって今はしがないチャイ売り。
サマイは父親の仕事を手伝い、列車が駅に停まると窓越しに乗客にチャイを売る。
 
ある日、映画嫌いのはずの父親が家族総出で映画を観に行くと言う。
サマイが映画に連れて行ってもらうのは5歳のとき以来で、
映画に連れて行くのは今日が最後だと言う父親。
 
家族で訪れた街の映画館“ギャラクシー座”で映画に魅せられたサマイは、
学校をさぼってギャラクシー座に忍び込むが、従業員に見つかって放り出される。
しょげるサマイに声をかけたのは、ギャラクシー座の映写技師ファザル。
ファザルはサマイが持参した弁当と引き換えに映写室に招き入れてくれて……。
 
少年の名前サマイには「時間」という意味があるのだそうです。
ファザルから「ご両親はどうして君をサマイと名づけたのかな」と問われ、
「お金も仕事もなかったパパとママには時間だけはあって、
そのときに僕が生まれたから」と答えます。すごくいい表情で。
 
そんなママのつくるお弁当は超絶美味しくて、ファザルは毎度舌鼓を打つ。
ママの料理する様子も素晴らしく、立ち上る湯気や具材を炒める音が楽しい。
 
サマイと悪ガキ仲間6人衆が最高。
駅舎の倉庫から盗み出した映画のフィルムをなんとか映し出そうと、
サマイの指示を受けて道具探し。娯楽のない村人たちも大喜び。
ただ、父親だけは映画をいかがわしいものとして喜びません。
怒ってばかりの父親だったからこそ、ラストには胸が熱くなる。
 
サマイが通う小学校の先生の言葉がなるほど。
今のインドには2つの階級しかない。英語を話せる層と英語を話せない層と
田舎の町を出て行くには英語が必須。
 
エンドロールでオマージュを捧げられる日本人映画監督は3人だったかな。
勅使河原宏と小津安二郎黒澤明
廃棄されて装身具に加工されたフィルムは彼らの化身。
 
心洗われる作品でした。すごくよかった。

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『ヒトラーのための虐殺会議』

『ヒトラーのための虐殺会議』(原題:Die Wannseekonferenz)
監督:マッティ・ゲショネック
出演:フィリップ・ホフマイヤー,ヨハネス・アルマイヤー,マキシミリアン・ブリュックナー,マティアス・ブントシュー,
   ファビアン・ブッシュ,ヤーコプ・ディール,リリー・フィヒトナー,ゴーデハート・ギーズ,ペーター・ヨルダン,
   アルント・クラヴィッター,フレデリック・リンケマン,トーマス・ロイブル,ザシャ・ナータン,
   マルクス・シュラインツァー,フレデリック・シュミット,ジーモン・シュヴァルツ,ラファエル・シュタホヴィアク他
 
体力の衰えを感じつつ、スタートダッシュをかけるべく新年も観まくるつもりでした。
ところが、仕事帰りに寄りやすい箕面、エキスポシティ、茨木ではもう観るものがない。
前週は水~土曜日まで1本も観なかったので、この週は月曜日から遠出。
なんばパークスシネマへと向かいました。パークス駐車場は平日の最大料金1,000円というのがありがたい。
 
キャストの誰を省いたらいいのかわからないので(笑)、全員挙げてみました。
1942年1月20日にドイツ・ヴァン湖畔で開かれたヴァンゼー会議の様子を描いています。
ヴァンゼー湖という湖なのかと思ったら、ドイツ語で「湖」は「ゼー」というのですね。
ベルリンの高級住宅地、ヴァン湖畔にあるナチスドイツが所有する邸宅で開かれたのがヴァンゼー会議。
まったく、どういう思考でこんなことになるのか仰天するのみ。
 
議長は国家保安本部(ゲシュタポ)長官ラインハルト・ハイドリヒ。
「ユダヤ人問題」の「最終的解決」について議論するために招集されたのは、
ハインリヒ・ミュラー、アドルフ・アイヒマンなど、本部に所属する親衛隊や、
ポーランドやラトビアにいる親衛隊の面々と、各省のお役人たち。
 
「ユダヤ人問題」っていったい何なのよ。聞いた瞬間に不快感が募る。
こんな問題のために高官たちが首を揃えて話し合うって、何かもう前提が変。
ユダヤ人がこんなことしましたあんなことしましたという話ではなくて、
ユダヤ人をとにかく絶滅させましょうという話。
「最終的解決」なんて言葉を使って直接的表現を避けているけれど、つまりは殺す。
銃殺には時間がかかるからもっと手っ取り早く大人数を殺す方法はないか、そういうことです。
 
ハイドリヒに楯突いてみせるお役人もいますが、虐殺に反対しているわけではありません。
自分を無視して話を進められるのが気にくわないだけ。
殺すのは時間がかかるし、騒動も起きるかもしれないから、断種のほうがいいとか。
女子供まで殺めるのはどうなんだという意見も出ますが、
どっちみち男親は殺すんだから、親がいなくなった子供を生かしておくほうが可哀想とか。
 
無茶苦茶な討議をしているのに、殺戮前提の話については誰も変だと思っていない。
「2分の1ユダヤ人や4分の1ユダヤ人をどうするか」なんて話を真顔でされたら唖然とするしかありません。
少しでも多くのユダヤ人を殺した親衛隊が褒められてドヤ顔をする。
 
会議に出席していた皆さん、80年が経過した今、どうですか。
何百万人というユダヤ人を殺したけれど、殺し損ねたユダヤ人がいることを後悔しているんですか。
どう思っていますか。

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