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『AGANAI 地下鉄サリン事件と私』

『AGANAI 地下鉄サリン事件と私』
監督:さかはらあつし
来る日も来る日も十三へ。
どこの映画館へ行こうかなと選べる日はいつになったら来るのか。
ま、連日十三というのも楽しいですけどね。
すでにこのとき物心ついていた人なら覚えているはず。
1995年3月20日に起きた地下鉄サリン事件。
その車両にちょうど乗り合わせていて被害を受けたさかはらあつし監督は、
オウム真理教からアレフへと改称して活動を続ける宗教団体に接触。
広報部長の荒木浩に取材を申し込みます。
上映終了後にリモートトークショーがあり、
この日のゲストはさかはら監督と京都府立大学の宗教学の先生でした。
眠くなるシーンなどひとつもない作品でしたが、
やはりこうして話を聴くと、もう一度観たくなりますね。
さかはら監督は最初、アレフに寝泊まりさせてくれと頼んだそうです。
それは断られ、ならばと荒木氏を説得した末に選んだ形がロードムービー。
荒木氏の思い出の地である丹波や実家の高槻を共に訪れます。
実は序盤、さかはら監督の喋り方にちょっと抵抗をおぼえました。
ラッパーのようないでたちをした監督は、荒木氏にタメ口。
荒木氏のほうはずっと敬語で喋っているものですから、
被害者とはいえ、ほぼ初対面の相手にその喋り方はどうよと思いました。
しかし監督はお若く見えるだけで、帽子を取れば白髪混じり。
しかも荒木氏とは同窓の京都大学出身で、ひとつ歳上だというではないですか。
ならばタメ口もごもっとも、人は見かけによりません。失礼しました。
アレフの広報部長だからさぞかし口が達者だろうと思いきや、
荒木氏は大人しめで、ああ言えばこう言うふうにも思えません。
だけど麻原彰晃を今でも信じて尊敬していると言い切り、
事件は麻原彰晃の意図したことではないと信じている、いや、信じたいだけなのか。
高学歴の人のことだから始終考えているのかと思っていましたが、
この宗教団体の人は、教団と教義のこと以外考えたくないみたい。
さかはら監督が空海の三教指帰の話を持ち出し、
考えが2つ3つあってそれ以上考えないというのと、
1つしかなくてそれについてしか考えないのは全然ちがうとおっしゃっていました。
まさに荒木氏には1つの考えしかありません。
京都府立大学の川瀬貴也先生が、高学歴の人がオウム真理教に多い理由について話していたのも面白かった。
麻原彰晃って、ヨガの指導者としては優秀だったんですねぇ。
勉強のできる頭でっかちの人は、そこに身体論を絡められると落ちやすい。
映画自体は2015年に撮り終えていたけれど、その後、上祐史浩と激しく議論し、
この映画を上映するせいでアレフに入信希望者が増えたらどうしようかと、
葛藤に葛藤を重ねて完成までに5年かかったのこと。
加害者の名前はこうして覚えている人が多いのに、被害者の名前は知らない。
そして被害者の会にもヒエラルキーのようなものが存在して、
監督のように事件後に一旦渡米し帰国した人には入会が許されないという話も興味深い。
上映終了後のリモートトークショーってなんとなく面倒だと思っていましたが、
緊急事態宣言発令下で伺う機会が増えてみたら、やっぱり面白い。
作り手の話は聴かなきゃいけないと再認識しました。

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『クレストーン』

『クレストーン』(原題:Crestone)
監督:マーニー・エレン・ハーツラー
第七藝術劇場で2本ハシゴの2本目。
ナナゲイでは“フォーカス:サニーフィルム”と題した特集が組まれています。
前述の『ヴィクトリア』とこの『クレストーン』もそのうちの1本。
これもベルギーのドキュメンタリー作品。
アメリカ中西部コロラド州のクレストーン。
かつて先住民ナバホ族が暮らしていた土地なのだそうです。
現在はスピリチュアリストたちのメッカとなっているこの地に移住して、
コミューンを作っているラッパーたち。
ラッパーの高校時代の友人であるマーニー・エレン・ハーツラー監督は、
彼らに会いに行き、カメラを回してその姿を収めます。
ナレーションを務めるのは監督自身。
その声はとても耳に心地よいのですが、作品自体は好きになれませんでした。
映像は美しいんです。
でも被写体になっている彼らの生活にまったく共感できません。
今は廃墟と化したクレストーンの空き家に忍び込み、
家具や食料品などありったけ盗んでくる。
誰も使わないんだから有効活用なのでしょうけれど、
ふだん彼らがどのように生活しているかというと、大麻の栽培が主。
好きなときに起きて、大麻を育てて、ラリって、音楽をつくる。
それをSNSに投稿していいね!を稼ぐ。
「俺たちに寄付しろ。そしてここへ来いよ。一緒に暮らそうぜ」。
“please”なんて付いてないですからね、“Donate.”。
なんでこんな奴らに寄付しなきゃいけないんだか、私にはわからん。
でもきっとこれがカリスマ。実際、寄付する人が多いのでしょう。
みんな本当にこんなふうに暮らしたいのかしらん。
自由至上主義、勝手に唱えてください。羨ましくもなんともない。
出た腹も見苦しいし、あんな汚いキッチンは耐えられません。
それを崇める女性監督の気持ちも理解できないのです。
それから、字幕に難あり。
「愛にあるれる」「シュミレーション」「前ら」、なんすかそれ。
単なる誤字はまだいいとして、「シュミレーション」は最悪。
好きな作品だったとしても字幕の誤字で萎えることがあるのに、
「寄付しろ」なんて偉そうなうえに(笑)、こんな字幕だとガクッ。
超辛口になってしまいました。すみません。

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『ヴィクトリア』

 『ヴィクトリア』(原題:Victoria)
監督:ソフィー・ベノート,リザベス・デ・ケウラール,イザベル・トレネール
緊急事態宣言発令下でも変わらぬ毎日を送っています。
塚口でノンアルコールの食事をする予定だった日、
日中わが家はクロスの張替えと畳替えを業者さんに依頼。
複数の車が立ち入るため、駐車スペースを空けておくほうがよかろうと、
立合いをダンナにまかせ、私が車に乗って出かけることに。
どうせ行くなら2本は観たいけれど、十三まで車に乗って行ったら、
塚口の予約時間に全然間に合わない。ならばどうする?
ということで、まずは塚口まで車で行ってコインパーキングに入庫。
電車に乗って十三まで行きました。塚口から十三までは電車ならわずか7分。
鑑賞後にまた十三から乗れば塚口まですぐですもの。
第七藝術劇場でサニーフィルムの配給作品を2本ハシゴ。
その1本目が本作。
アメリカ作品だと思い込んでいましたが、なんとベルギー作品。
日本初公開のドキュメンタリーです。
カリフォルニア・シティ。
そんな町があることを私は知りませんでした。
ロサンゼルスから約2時間、内陸に車を走らせると出てくるその町は、
1960年代にある富豪がロスに次ぐ街を目指して開発に着手した町。
しかし、ゴルフ場とボウリング場を建設後、その富豪は去って都市計画は頓挫。
こうして州で3番目に大きな敷地面積を持つこの町は、
砂漠の中にある巨大なゴーストタウンと化しました。
ロサンゼルスでの暮らしを捨て、家族と共にここに移り住んだ青年、
ラシェイ・T・ウォーレンの目線でこの町を見つめます。
都市開発を急げばろくなことにならない。
この町ではあちこちで水道管がしょっちゅう破裂。まるで噴水です。
笑ったのは、ラシェイがスマホで撮影する「噴水」の向こうに美しい虹がかかる光景。
「おい、あれは虹か!? 最悪のときにも虹は出るんだな」とラシェイも苦笑い。
ほとんど住む人のいないこの町にも学校はあります。
だけど、本来の道路を通ると片道1時間半も要する。
だから、ゴルフコースになるはずだった空き地を突っ切って進む。
道路にはすべて何々通りみたいな名前がきちんと付けられていて、だから余計に空しい。
大統領の名前が付いていたりするのに、地図に載っていない、ウィキですらヒットしない町。
半ばあきらめ口調のラシェイですが、ここを離れる気はないらしい。
未来はないように見えるのに、子どもたちも意外に楽しそう。
目の前に広がるのは砂埃舞う荒れ地でも、彼らは生に溢れている。
いったいその富豪って誰ですか。もっとこの町のことが知りたい。

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『ドリーミング村上春樹』

『ドリーミング村上春樹』(原題:Dreaming MURAKAMI)
監督:ニテーシュ・アンジャーン
 
ナナゲイで2本ハシゴの2本目。
 
村上春樹作品のデンマーク語翻訳をほとんど担当したという翻訳家メッテ・ホルム。
彼女に密着したドキュメンタリーです。
 
学生の頃、村上春樹作品を非常によく読みました。
卒業してからなぜか遠ざかり、最近は絵本以外に彼の作品を読んだ記憶なし。
おそらく一生懸命読んだのは『ダンス・ダンス・ダンス』ぐらいまでかと。
つまり、彼が国際的な作家となった頃から読まなくなったので、
 
メッテ・ホルムさんは10代の頃、ゴブラン織に魅せられ、
フランスに渡って織物の勉強をしていた折に、
たまたま川端康成の翻訳本を読む機会があったそうです。
それで日本に興味を持ち、日本の文化について調べ始めたとのこと。
そして出会った村上春樹作品。
 
村上作品がない人生なんて考えられない様子で、
本当に村上作品を愛しているのだということが伝わってきます。
機械的に訳すのではなく、日本語で読む村上作品の雰囲気が
デンマーク語に訳しても損なわれることがないように、
「文」と訳すか「文章」と訳すか、選ぶ単語を徹底的に悩み抜きます。
 
自分以外の翻訳家が担当した作品を読みたがらない翻訳家が多いそうな。
でも彼女はほかの翻訳家とたくさん話をする。
各国の翻訳家が私ならああするこうするという話がとても面白い。
 
しばらく遠ざかっていた村上作品ですが、
世界中にファンを持つことを改めて知ると、久しぶりに読んでみたくなる。

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『ゲンボとタシの夢見るブータン』

『ゲンボとタシの夢見るブータン』(原題:The Next Guardian)
監督:アルム・バッタライ,ドロッチャ・ズルボー
 
緊急事態宣言発令下、大阪ではたった2館営業中の劇場のうちの1館、
十三の第七藝術劇場へこの日もGO。
1鑑賞につき1つ押してくれるスタンプがあっというまに10個貯まりました。
 
2017年のブータン/ハンガリー作品。
 
ブータン中部の小さな村ブムタンに暮らす一家。
長男のゲンボは16歳、父親が守る寺院を継ぐためには僧院学校に行かなければならない。
学校を辞めて父親の跡を継ぐべきかどうか悩んでいる。
長女のタシは15歳。性同一性障害で、サッカーが大好き。
自分の唯一の理解者であるゲンボには遠く離れた僧院学校に行ってほしくない。
 
ふたりの日々を中心に、父親と母親の目線からの話も綴られています。
 
LGBT問題も取り込んではいるものの、のどかな村の風景が心地よくて、
いつものようにしばしば睡魔に襲われる。
ぼんやりしているとエンドロールが流れ始めるという鑑賞になってしまったのですが、
上映終了後に配給会社のサニーフィルム代表と京都大学の熊谷誠慈先生による、
リモートトークショーがありました。これがとても面白かった。
 
兄を家に繋ぎ止めたい妹は、「僧侶になったら戒律を守らないといけないんだよ。
一生ヤレないんだよ。そんなこと守れる?」などと問いかけます。
寺院を守る父親が結婚したから子どもたちが生まれたわけなのに、
ゲンボが僧院に行ったら結婚できないってどういうことなのかと思ったら、父親は在家の僧なんですね。
息子は一旦出家させたい。しかし出家するとどこかほかの寺院に行かされるかもしれないから、
そのときには還俗して在家となり、実家の寺院を継いでほしいと思っているのではないかと。なるほど。
 
欧米の映画では、息子がゲイだとわかれば、母親がそれを受け入れたとしても、
父親は世間体などのこともあって絶対受け入れようとしない場合が多い。
少なくとも「いいよいいよ、おまえは好きなように生きろ」などという理解は示さない。
でもこの父親は「タシは生まれたときから自分のことを男だと思っているんだ。
前世が男だったのかもしれないね」とわりとあっけらかんと話します。
これはキリスト教と仏教の違いなのだということは、熊谷先生のお話でわかりました。
「自分のことを男だと思い込んでいるんだ」じゃなくて「思っているんだ」という翻訳もいいなぁ。
もともとのニュアンスがそうなのかどうかは知りたいところ。
 
また、ゲンボが「イマドキの恋愛は」などと言うシーンには、
オヤジみたいに達観したこと言いよるなと思っていたら、
仏教にちゃんとこういう言葉があるそうで、これもなるほどでした。
 
父親が寺院を継いでほしいと強く思っているのに対し、
母親が息子に望むのは、高校まではちゃんと行って、英語堪能になること。
外国人観光客相手に英語で案内できるようになってほしいと。超現実的。
 
インフラは遅れているけれどスマホなどのネット環境は逆に発達しているとの話も驚き。
「江戸時代にスマホがあるみたいな国」という熊谷先生の表現に笑いました。
 
国民の幸福を目指し、その指標をきちんと設け掲げている国。
こういったことを知ったうえでもう一度観たらより面白いだろうと思います。

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