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『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』

辺見じゅん氏の著書『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』は、
1992年に刊行された文庫本ですが、数カ月前まで全然知りませんでした。
第11回(1989年)講談社ノンフィクション賞、
第21回(1990年)大宅壮一ノンフィクション賞の受賞作だそうです。
仕事で文献に当たっているときにたまたま見つけ、興味を惹かれました。

“戦争を知らない子供たち”の世代の私。
努めて戦争ものを読むべきだろうとは思うものの、重いのはあたりまえ、
情景描写にもなかなか思いが馳せられず、
たとえフィクションの小説であっても読むのに時間がかかります。
そのせいで避けてしまいがちでしたが、これは見つけて即購入。

1945(昭和20)年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾。
終戦したそのとき、満州にいた日本人はソ連へと連行されました。その数なんと60万人。
極寒のシベリアで強制労働に従事すること12年。
本作は、そんなシベリア抑留者のうちのひとり、山本幡男氏を中心に、
彼らが過ごした収容所(ラーゲリ)での日々が淡々と綴られています。

満鉄調査部や特務機関にいた経歴から、戦犯扱いされた山本氏。
地獄絵のような拷問を受け、わずかな食事で激務を課され、
7万人もの人が亡くなったと言われるラーゲリの生活。

誰もが生きる望みを失うなか、山本氏だけは決してあきらめませんでした。
シベリアの空だって青い。空が美しいと感じることを他の抑留者たちに思い出させます。
ロシア語堪能で知識豊富な山本氏は、抑留者たちに俳句を教え、句会まで結成。
俳句の心得などまったくなかった彼らが、俳句を詠むことで癒やされます。

もちろんおおっぴらに句会を開くことは許されませんから、脱衣所などにこっそり集合。
最初は数名だった句会メンバーが徐々に増え、
最終的には300回近い句会を数えたというのだから驚きます。

生きて日本に帰国する、あきらめないと宣言していた山本氏。
しかし、それは叶うことなく、シベリアの地で病死してしまいます。
亡くなる直前、彼が日本の家族に宛てて書いた遺書。
ほかの抑留者たちは、いったい何年後に帰国できるかわからないけれども、
いつか帰れる日が来たときに必ず、山本氏の遺族に遺書を届けると誓います。

シベリアからは紙一枚持ち出すことも許されません。
帰国の日が来たときのため、抑留者たちは山本氏の遺書を丸暗記しはじめるのです。
山本氏が最後の力を振り絞って書いた何十枚にも渡る遺書を7人が手分けして暗記。
帰国後、1人ずつから遺書が届けられ、
7通目の遺書が山本氏の未亡人のもとへ届いたのは実に1987(昭和62)年のことでした。

これは個人の遺書ではない。
シベリアの空の下、むなしく死んでいった人びとの、祖国日本に宛てた遺書。
心が打ち震えました。生命を支える力を感じます。
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